著者:佐藤 梨花子 | 2020年1月10日更新
回答者
- 名前: アヤミ
- 2017年夏より海女になる
- 2男3女の母
- 中辰商店/アクセサリーデザイナー
- 相差生まれ、相差育ち
連絡方法
- 店を直接訪問(中辰商店)
住所:三重県鳥羽市相差町1423
TEL:0599-33-6008
Email:tacche1423@hotmail.co.jp
http://www.datsunet.com/i/nakatatsu/
- 日本語のみ可
<※なお、本記事の内容は個人の見解であり、海女全体や当該地域を代表するものではありません。>
私、1人っ子なんです。だから子供の頃からずっと母や親戚からは家業(商店)を継ぐのは自分だと言われて育ちました。
基本的に選択肢はありませんでしたが、若いうちは好きなことをさせて欲しいとお願いして、短大を卒業後松阪へ行き8年間会社勤めをしてそれから大阪で1年過ごしました。
もし他の生き方を選べたらですか?そうですね、両親に反対され専門学校へ行くことを諦めましたが、1人っ子でなかったら美容師になりたかったですね。
地元へ戻って来て今の主人と出会い結婚しました。主人も実家の旅館を継ぐために相差へ戻ってきていたんです。私たちには子供が5人いますが、主人とは子供達には自分の好きな所へ行ってやりたい事をさせてあげたいねと話しています。
子供は男の子が2人と女の子が3人います。もちろんいつだってまず子供を優先させています。
けれど子供が風邪をひいても少し熱があるくらいなら、海女へ行ってその後で病院へ連れて行きます。
やっぱり出来るだけ海女は行きたいですからね。私たちは1日1回、1時間半潜るだけなのでそういう事も可能です。
主人の旅館が忙しい時などは私も手伝いに行ったりもします。色々やってはいますが、でもなんだかどれも中途半端だといつも感じてしまいます。
「これだ!」と言える物が何かあったらいいのにと思うのですが。
はっきりとした理由は私には分かりませんが、乱獲を防ぐための規則なのだと思います。
以前は相差でも1日2回潜っていたそうですよ。ここは旅館が多いので料理の準備やお客様のお迎えがあったりして、日に2回潜るにはみんな忙しすぎると言うのも理由の1つなんじゃないでしょうか。
でも午後潮が引いていって潜りやすくなると言うのに、潮の満ちている朝の時間帯に潜らなければいけない時があります。
そういう日はもう少し潜っていたかったな~と思う事もありますね。
もともとは海女になる気はなかったんですよね。
海岸へ行って磯端をするのは好きだったんです。それから貝やシーグラスを使ってアクセサリーを作ることも好きで。
海岸でアワビの貝殻を拾ってきてそれを加工して使ったりしていたのですが、そのうちに段々と自分で獲った貝でアクセサリーを作りたいと思うようになったんです。
私が海女になろうと思い始めた頃、すでに祖母は海女を引退しており、母は海女をしていませんでした。
義母は今も海女をしていますが、彼女はベテランの海女なので初心者の自分が義母に教えを乞うのはなんだか申し訳ないような気がして、それで最初は自分一人で海女を始めました。
泳ぎに自信がなかったので海女をするのは難しいかなと思っていたのですが、周りの人が海女はそんなに泳がなくても出来ると教えてくれて、それである日、当時8歳だった長男を連れて潜りに行ったんです。
海で義母から海女を教わることはありませんでしたが、家にいる時など磯場について教えてもらう事もありました。
親しい近所の海女さんでも磯場の事はさすがに教えてもらえないので、義母にはとても感謝しています。
そうですね。なので最初は師匠なしで潜り始めました。
海女を始めた最初の頃はまだちゃんとしたダイビングの道具を持っておらず、フィンは近所のホームセンターで買った物、ウェットスーツは近所の方のお古を貰って着ていました。
おばさんたちは若い人に教えることを嫌がりますし。
でも私のお師匠は「男あま」なのですが、彼は若い海女を教育することに熱心な人で、海女へ行くなら連れて行ってやろうと言ってくれたんです。
それから私や友人達のお師匠になってくれています。
ええ!2017年の5月28日でした。
ウェットスーツの下をはいた状態で道具を全部持って浜へ出かけました。
でもウェットスーツの上を持って来ていないという事に気が付いて!家に電話をかけて浜まで持って来てもらったんですよ。
その日はトコブシをいくつか獲りました。
初めてアワビを獲ったのは6月5日、海女デビューの1週間後です。1つの場所でアワビを3つ見つけたのですが、そのうちの2つは規定サイズ未満の小さい物だったので逃がしました。
漁が終わり市場へ水揚げに向かう道中、知り合いの海女のおばあさんに会ったので彼女を呼び止めて「見て見て~」って、初めてのアワビを自慢したんですよ。嬉しかったな~。
ここの人たちはとてもオープンで社交的です。
相差の人は答志(鳥羽市答志島)の人と割と似ているんじゃないかな。人となりが似ている気がします。
シャイで保守的な人も中にはいますが、多くの人が新しい物を受け入れる事に寛容です。
私のように一度地元を離れたけれど相差へ帰ってくる若い人たちもいます。
相差は観光地で年間を通して観光客の往来があるので、そういう基盤を利用することが出来る人なら故郷に戻ってくるという選択はしやすいかもしれません。
家業を継いだり起業をしたい若者にとって相差は「帰ってこよう」と思える環境なんだと思います。
そういう人が居たらここに住む事と漁協の組合員にならなければいけない事を伝えます。
鳥羽市が移住に関するパンフレットを用意しているのでそれを見てみるといいと教えてあげるでしょうね。
でも組合員になるのはすごく難しいし、出資金も海女での収入を考えるとかなり高額です。
ちょっと海女を体験するためだけの簡易な何か許可のようなものがあれば良いのにと思うのですが、実際はそんな簡単なものではないのでしょうね。
「パワフル」!それこそ私の思う海女さんですね。
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