トラコの場合。

著者:佐藤 梨花子 | 2019年3月2日

回答者

- 名前: とら(通称:トラコ)

- 1953年より海女になる

- 既婚 (息子3人)

- 鳥羽市石鏡町生まれ

 

連絡方法

- 著者にメール (info@japan-ama.com)

- 日本語のみ

 


<※なお、本記事の内容は個人の見解であり、海女全体や当該地域を代表するものではありません。>



いつから海女を始めたのですか。

中学校を卒業してからやから、15歳くらい。卒業後すぐに海女を始めたわけやなくて、1年はみんな遊んでいたな。

本格的に海女をし始めたのは16歳くらいから。友達と一緒に新島(東京)へ出稼ぎ海女に行くようになって、それからやな。

海女になってすぐの頃はまだ半分遊びみたいな感じで、同級生や友達と誘い合って近くの磯へ歩いて行って潜っていたよ。

誰に海女を習ったのですか?

海女は実の母親に習った。母に海女を教えてもらって、代わりに私は磯へ行く時の母の荷物持ちをしたりしてね。昔は桶に道具も獲った貝も全部入れて、それを頭にのせて山道を歩いて磯まで行っていたんやよ。私があまり獲れなかった時なんかは母にアワビを足してもらったり、アワビの居る場所や獲るコツを教わったりしてね。そうやって母に教わった磯場もいくつかあるけど、自分で見つけた場所もたくさんある。

そう言えば、母に教わった磯場の一つで大きな岩場になっているところがあるんだけどね、以前はそこへ行けば必ずいくつかアワビを獲ってこれたのに最近では岩肌がつるっとして海藻が全く生えていないんだよ。なんだか海が変なの。海藻が生えなくなったせいでアワビもその場所からいなくなってしまってね。磯焼けが始まったのかもしれないなぁと思っているの。

 

今まで海女以外にはどんな仕事をしてきたのですか。

毎年秋になると稲刈りがあって、10月頃からひと月くらい伊勢の農家さんの家に住み込みで仕事をして、それが終わると今度は飛島(愛知県)へ稲刈りに行くの。仕事が終わると帰る頃に現金でお給料を貰えるんやけど、1日働いても何百円程度だから、大してお金にはならないんだよ。土木の仕事もちょっとしたし、昼の海女が終わってから夜だけ旅館に皿洗いをしに行ったり、工作所でも働いたよ。国崎で巻き線(機械のモーター)を手作業で組み立てる仕事をした事もある。当時は全部手仕事だったけど、今はそんなのは機械で全部作っちゃうんだってね。

手の空いた時は着物を作ったり和裁をしたりしたり、何でもやったんやから!

 

若い頃、冬でも海女はしていたのですか?

 冬は遊びよ。娘の頃は秋の稲刈りが終わると1か月くらい洋裁店をしている大阪の従兄の所へ遊びに行って自分の洋服を作って過ごしたり、神戸にいる弟の所へ遊びに行って宝塚歌劇団の演劇を観たり、外国船の進水式を観に行ったりして遊んでいたのよ。

それに冬は家の手伝いをしたりしなくちゃいけないから忙しくてね。

当時はガスがなくて薪で料理をしていたから、冬の間は山へ行って薪を集めなくちゃいけなかったし、海女には行ってなかったね。

 

ウェットスーツを着始めたのはいつ頃でしたか?最初着てみた時の感想はどうでしたか?

 確か二男を生んだ年やったと思うから、昭和44年(=1969年)くらいやね。それまでにも内緒で白い磯着の下に薄手のスポンジ(注:石鏡ではウェットスーツを「スポンジ」と呼ぶ)生地のパンツを履いている海女さんが何人かはいたんやけどね。

ある時に村で「石鏡もスポンジを着ることにしようか」と決めてね。国崎は獲物が絶えていくからって、1件に1人ずつスポンジを着ることができるように決めてたけど、石鏡は1人1人が持てることになって、うちはおばあさん(義母)と私とが作ったの。買うのはお金がかかったよ、(ウェット)スーツ一式だけじゃなくて鉛やフードも全部買い揃えなくちゃいけないからね。当時はまだ足ひれ(=フィン)はなかったかな。

初めて着た時は海に入っても寒くないし、良いなと思ったよ!

でもスポンジで体が浮いちゃうから、重りを何キロ付けたら良いのかも分からなかったし、なんだか初めは加減が分からなくってねぇ。

ウェットスーツが着用可になった事で漁獲量がいきなり増えたと思いますが、当時の海女さん達はそれについてどう思いましたか?

「これではもう獲り絶やしてしまうなぁ」ってみんな言っていたよ。

それでも一度着てしまうとね、もう脱げない。「いなくなるならそれまでよ」ってね。

寒さの方が重要だもん。

真夏ならいいけど、当時は旧正月の前まで潜っていたからね、今で言う2月まで潜っていたんだよ。だから冬の海水温はもう、凍えるほど冷たくて!

ナマコなんて獲ってる余裕ないの、めひび(ワカメの雌株)を掴んで海から上がるだけで精一杯。寒さで商売どころじゃないの。

それに怖いの。寒くて震えあがってるから、海から上がる力もなくなって「溺れたらどうしよう」って、それがすごく怖かった。

妊娠した時はどのくらいギリギリまで潜っていたのですか?

出産直前まで潜っとったよ。子供を産んだら1か月くらいは休むけど、それからすぐに復帰するの。

私より4つ年上の海女さんなんて、海女をしている最中に産気づいてすぐに船で丘まで運んでもらって、その日のうちに自宅で出産した。そんな人もおったんよ。当時は産婆さんが村にいたからね。

海女へ行くのが好きなとら子ばあ、収入になろうがなるまいが海へ行きますよね。海女の何がそんなに楽しいんですか?

家にいるよりええやないの。海女へ行ってみんなとしゃべってワイワイしている方が楽しいもの。最近はあんたらみたいな若い子も仲間になってくれたしね。

若い頃は1人でも磯端(干潮時に海辺で食用の貝を採集する事)に行ったりもしたけどね、滑って転ぶと危ないし、今は怖いから1人では行かない。

まぁ、お金になるならないじゃなくて、好きなんよね。みんなそうなってくのよ、ハマっちゃうの。あんたもそうやないの?そういうもんよ。

若い頃と今、海女の腕というか実力的にはどう変わったと自分で感じますか?その中で自分の海女としてのピークはいつだったと思いますか?

5年くらい前、ちょうどあんたの旦那さんが初めて石鏡に来た頃かな(筆者の夫は2013年に鳥羽へ移住)。

忘れられないのがその年は小さいナマコがいっぱいいてね、ナマコを30キロ拾ったことがあるの。その年だけ、不思議やったね。

潮が効いてくるとナマコが下から湧いてきて、こう頭をもたげてダンスしてるのよ。しかもその年はなんだかすごく「見えて」ね、満ち潮だからなのかすごく海が澄んでいて、見えてくるの。

海女を65年してるけど、ナマコを30キロなんて拾ったことないもの。普段でも10キロも獲れるか獲れないかだったのに。

あの時が一番自分が海女として物を獲ったなと感じた年やったね。

息子さんが3人いるとらさん。もしも娘が居たら、海女をさせたいと思いますか?

好きなようにさせるよ、本人次第。

本人がやりたいと言えばさせるけど、あの頃の子供たちはみんな高校へ進学していたから、海女をやりたいと言う子はおらんかったね。

やっぱり周りの同級生や友達が海女をすると言わないと、自分も「海女をしよう」とは考えないものだよ。

あの頃(=息子たちの世代)は高校を卒業したら就職して、それが当たり前だったからね。

最後に、とら子ばあの健康で長生きの秘訣を教えて下さい。

 『食べて、笑って、寝る』。以上!